第4回 様々な社会課題に向き合って
一般社団法人エル・システマジャパン
代表理事
菊川 穣
日本社会の課題と向き合う
東日本大震災の被災地の復興を目指して始まった日本でのエル・システマですが、設立当初から、今の日本社会が抱える様々な課題にも向き合えないかという声がありました。諸外国と比べると国土が均等に発展していて、極端な格差がないと言われていた日本でも、ここ20年間に、家庭の経済的環境や、地理的な条件による違いが認識されるようになってきていることもあり、エル・システマジャパンとしても当然何か行動を起こすべきだという議論になりました。
長野県駒ケ根市での取り組み
そうした中、2017年から、長野県駒ヶ根市で、市内の小中学生を対象とした弦楽器教室が始まりました。駒ヶ根は、中央、南アルプスに挟まれた風光明媚で豊かな小都市ですが、県内の長野、松本、上田、諏訪等と比較すると、市内で触れられる文化芸術活動は限られています。一方、市がベネズエラとの文化交流行事を数年にわたって続けていたこともあり、相馬、大槌での事例を知った市の企画部局担当者から2016年春に連絡があり、どのようにしたら駒ヶ根で活動が始められるかを探ることになりました。
ただ、市としての財源が限られる中、なぜ駒ヶ根でエル・システマなのかを市民に理解してもらう必要がありました。その点では、県内での文化アクセス格差の問題より、これまでこうした文化芸術活動や習い事をする機会がなかった、市内の発達障害や不登校の子どもによりターゲットを当てることが意識されました。つまり、音楽、弦楽器に関心があっても、月謝を払って親が密接に関わることができない家庭や、指導者だけでは対応が難しい多動性の子どもを包摂することを念頭に置いたのです。
もちろん、そうした困難がなくても、誰もが無料で楽器を貸与され、アンサンブルができることは、音楽に関心があっても、機会がなかった子にとって、純粋に意味があることだと認識しています。兄弟が多かったり、中学に入り部活動が忙しくなっても、音楽好きの仲間と会える居場所としても機能しています。今や、人口3万人の駒ヶ根市で、70人近い小中学生が週1回の練習に参加し、自主公演のみならず、地域での各種行事や、老人介護施設での訪問演奏等を実施できるようになっており、地域住民のウェルビーイングの向上にも貢献できていると言われています。
東京子どもアンサンブル/クリエイティブ・ワークショップ
2017年から東京芸術劇場と共催という形で始まった東京ホワイトハンドコーラス。聴覚に障害のある子どもたちを中心に、歌詞から手話でオリジナルな表現を主体的に生み出す〈手歌〉の取り組みからスタートしました。翌2018年からは、視覚障害のある子どもたちが、楽譜を使わず、音源教材で練習ができる体制を作り、美しいハーモニーと楽しさを追求してきました。
しかし、2020年以降、コロナ禍で丁寧に活動をおこなっていく中、それまでのインクルーシブという概念やそれぞれの当事者にとっての”音楽”をとらえなおす機会を与えられました。また、手話歌などを「音楽的」とは感じられないろう者がいることに気づきました。身体(特に視覚と固有感覚)から生じるリズム等を分析し、ろう者にとってのオンガク(敢えてカタカナで表記)について試行錯誤し、深め、普及していく場の必要性を感じるようになったのです。この問題意識は、2022年からクリエイティブワークショップという形で結実し、ろう者の映画監督、舞踏家、研究者を中心とするグループで議論し、将来はろう学校でも使用できるような教材開発を視野に入れて活動を行なっています。
そして、合唱団としての活動は、同じく2022年から東京子どもアンサンブルと改名し、視覚障害の子どもたちが参加しやすい環境を大事にしながら、インクルーシブな社会づくりに共鳴する子どもたちなら誰もが参加できる、高みを目指すコーラスを行っています。自主公演、招聘演奏を重ね、現在は30人弱のメンバーが東京都のみならず、埼玉県、神奈川県の盲学校、特別支援校、そして、普通校から週1回のペースで通っており、発達障害や、外国にルーツがある子どもも含まれています。視覚障害児を対象としたコンクールの声楽部門で優勝する子も複数でており、相馬同様、古橋富士雄先生の監督のもと音楽的な水準もますます向上しています。
児童養護施設での取り組み
虐待やネグレクト等、なんらかの理由で親と暮らせない子どもが暮らす児童養護施設。施設の子どもたちのための文化芸術、スポーツの活動は存在していますが、単発ベースで、継続的にレベルの高いものを集団で目指していくような仕組みは限られています。そうした中、2014年から、田中バイオリン工房主催の田中眞次氏が、使用されなくなった楽器を収集、修繕し、神奈川県、東京都の複数の施設で実施している「弦楽りぼん」弦楽器教室プロジェクトは稀有な事例で、多くの施設関係者から評価されてきました。
2021年、コロナ禍で長期に渡って活動が停止していた施設に関し、田中氏よりエル・システマジャパンに相談があり、2023年より川崎市の新日本学園で月2回、2024年より渋谷区の広尾フレンズにて月4回のバイオリン教室を再開しました。現在は、2人の指導者、そして、プロの指導者や音大生を含む指導ボランティアが関わっており、新進気鋭の若手ヴァイオリニストの金川真弓さんがスペシャルサポーターとして、不定期で施設への訪問演奏、特別指導をしてくださっています。
プロフィール
菊川 穣(きくがわ ゆたか)
神戸生まれ。幼少期をフィンランドで過ごす。University College London地理学BA(1995年)、政策研究学(Institute of Education)MA(1996年)。(株)社会工学研究所を経て、国連教育科学文化機関(ユネスコ)南アフリカ事務所、国連児童基金(ユニセフ)レソト、エリトリア両事務所で、教育、子ども保護、エイズ分野の調整管理業務を担当。2007年に日本ユニセフ協会へ異動、J8サミットプロジェクトコーディネーター、資金調達業務に従事後、2011年より東日本大震災支援本部チーフコーディネーター。2012年、(一社)エル・システマジャパンを設立、日本ユニセフ協会を退職、代表理事に就任。公益財団法人ソニー音楽財団こども音楽基金選考委員会議長(2019年〜2021年)。公益財団法人音楽文化創造理事(2022年〜)。