第6回「piangere」
チェリスト
山本裕康
「お前マーラーの交響曲9番って聴いたことある?」
「ないけど、いい曲なの?」
「お前バカじゃねーの?一回聴いてみなよ。バーンスタイン指揮のベルリンフィルのライブ録音をとにかく聴いてみな。聴けよ絶対」
そんな会話を親友のコントラバス奏者の池松宏と交わしたのは大学1年生の夏休み前でした。
僕はバーンスタインの名前もマーラーの名前も知らず、知っていたのはベルリンフィルという名称だけ。 そこまで言うならと図書館で何度も聴きましたが (この曲のどこがそんなに良いんだろう?)と内心ずっと思っていました。
夏休み突入して故郷の名古屋に帰省すると、そのバーンスタインが名古屋市民会館に来るという事を知り、父親からお小遣いをもらってチケットを購入して聴きに行きました。
その時のオーケストラはイスラエルフィルで、演奏曲目は偶然マーラーの9番でした。 演奏会では図書館で何度も聴いただけあって、なんとなく曲のガイドラインは追えていましたが
(CDと生演奏ではずいぶん違うものだ)と当たり前の事に気付いたり
(弦楽器が良い音してるな)とか
(バーンスタインってなんで巨匠と呼ばれてるんだろう)などと思いながら聴いていました。
ところが最終楽章になると音楽の渦に巻き込まれ、何故が目頭が熱くなり、終演した時には放心状態になった事を最近の出来事のように思い出します。
ただ、今は昨日食べたものすら思い出せませんが。
(このマーラーの9番をオーケストラで弾いてみたい)
初めてオーケストラに入る事を夢見た瞬間でした。
一方、バーンスタイン指揮のマーラーの交響曲9番のライブを聴いたことは今となっては夢のような話で、僕の中では大切な宝物になりました。
こうして僕のマーラーの9番の最高の演奏を探す旅も始まり、それ以来CDの新譜が出れば購入し、演奏会でマーラーの9番をやると言えば聴きに行き、僕の人生にずっと寄り添ってくれている曲でもあります。
数年前、ファビオ・ルイージ指揮、サイトウキネンオーケストラでこのマーラーの9番の交響曲を演奏しました。
その時コントラバス奏者の池松宏も弾いていて、最終楽章では彼は泣きながら弾いていました。
それを見て僕もとめどもなく涙がこぼれ、楽譜が滲んで見えませんでした。
40年近く前の「あの夏」の様々な出来事が頭の中を駆け巡り、そして2度と戻らない青春時代をなんとかこの手で掴もうともがき続けるような舞台でした。
もちろん手にする事は叶いませんでしたがセピア色の思い出はうっすらとカラーになりました。
音楽は素晴らしく、その曲に出会った時の温度や湿度、匂いや光景やその時の想いがセットとなって蘇ります。
このマーラーの9番もあらゆる時に聴いてきましたが、思い出すのは大学1年生の夏なのです。
こうして大学1年生の夏は終わり、秋は友人たちが受けたコンクールを聴きに行き、その大きな刺激をモチベーションに大学の後期の試験に初めて挑みました。
その時僕はサン=サーンスの協奏曲を勉強していて
「弾けるところは弾ける、だけど弾けないところはどうしても弾けない」と言うごく一般的でシンプルな悩みに苦しめられていて、大学の授業なんか出ている暇などあるはずもなく練習に没頭していました。
そして試験前には井上頼豊先生門下の発表会があり、弾けないなりにも颯爽とそのサン=サーンスの協奏曲を披露するはずでした。
多くの方がこのサン=サーンスの協奏曲の冒頭をご存知かと思いますが、前奏はイ短調の和音が1発「ジャン」と鳴るだけです。
僕はその「ジャン」と共にエンドピンを滑らせ舞台の上で散ったわけです。
小学6年生の夏期学校でエクレスのソナタの独奏をさせてもらった時にエンドピンを滑らせ、中島先生に怒られた事を活かす事が出来なかった。
そして井上頼豊先生には
「音程を外しても良い。暗譜がわからなくなっても良い。それはどんなに準備しても起こる可能性があるからだ。ただ、準備すれば避けられる事をしなかった事は許し難い。今度エンドピンを滑らせたら破門だ」
と厳しく叱られ、散々なサン=ザーンスでした。
今ではそんな僕がエンドピンを滑らせる事の罪深さを生徒さんに偉そうに語っていますが、人の物を盗んではいけないと泥棒に言われているようなものです。
編集部より:チェロのエンドピン、チェロ科以外の生徒さんはご存知ですか?
床に立てて楽器を支える大事な部品です。
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。