第13回「retirement」
前回1900字も使って書いたオーディションで入団した東京都交響楽団をわずか3年半で退団するというお話です。
これから退団した真相を書くのですが、その理由はなんだと思われますか?
・音程が悪過ぎた
・遅刻が規定回数に達した
・飽きた
・週刊文春に働けなくなるような事実が記事に出た
・お米を盗んだ
等々退団に至る理由は様々あるとは思いますが、実はかなり単純な理由によるものでした。
それは「力不足」です。
当時の僕には当たり前の話ですが、次々とやってくる演奏会の曲目は全て初めて経験する曲でした。
その譜読みに段々追いつく事が出来なくなっていったのです。
特にその頃東京都交響楽団では「マーラーシリーズ」「ワーグナーシリーズ」等々大曲のオンパレードで、毎回中途半端な状態で初日のリハーサルに行くことが増えました。
ただ弾く事だけでも難しいマーラーの5番や9番、ワーグナーのオペラは当時の僕には到底対応する事はできませんでした。
「今は対応出来るのか?」と言う質問は受け付けませんよ。
そんな中、ベートーヴェンの2番のソナタを演奏する機会を頂きましたが、演奏会当日はボロボロで見事に玉砕。相当練習したのにも関わらずです。
その演奏会の事は今でも忘れることが出来ません。
そもそも記憶に残る演奏なんて、アクシデントがあったり本当に落ち込むような演奏会がほとんどなんですけどね。
オーケストラもソロも室内楽も全てが中途半端で、しかもこのままでは何も弾けなくなるのではという恐怖感に怯えていました。
あの頃は「とにかく頭を休める時間、余裕を持って練習する時間が欲しい」とその事だけを望み練習する事よりもどうしたらその時間を確保できるかしか考えていない自分がいました。
皆さんが思ってらっしゃるより案外僕は真面目なんです。
そんな毎日を過ごしていると、辞めるしかないという所に思考が落ち着くんですよね。
仲の良い同年代の同僚にそれを話すと絶対に引き留められるだろうとも思い、誰にも言いませんでした。
辞める日を決めて、その3ヶ月前に辞表を提出しました。
単なる自分の力不足を「オーケストラが忙し過ぎて時間が無い」と責任転嫁していたわけで、とても人様には話せない情けない物語です。
今から思えば全てにおいて若かったですね。
しかし、今こうやってまだチェロを弾いているわけですから、その選択もあながち間違いではなかったのかな? と思います。
あの時同僚に相談して引き留められてそのまま東京都交響楽団にいたらどんな人生だったんでしょうか。
それはそれで興味があります。
今でこそ日本中のオーケストラは各々のオーケストラによって異なるものの、コンサートマスターの待遇であるとか首席チェロの勤務日数等々整備されています。
しかし当時のオーケストラの多くはあらゆるポストの勤務条件を模索していた時代で、首席チェロと言うポストに対しても多くのオーケストラでは勤務条件が決まっていませんでした。
そういう時代背景もあり、東京都交響楽団を退団してから日本中のオーケストラから客演首席奏者として呼んで頂く事になりました。北は札幌交響楽団から西は広島交響楽団まで。伺った事がないオーケストラは九州交響楽団だけで、格好良く言えばチェロを担いで日本中をさすらいました。
しかしそれは僕が様々なオーケストラから呼ばれる実力だったというわけではなく「東京都交響楽団の首席チェロ奏者を辞めた人」と言う看板に対しての依頼だったと思います。
「力不足」で辞めたわけですからそれは言うまでもありません。
こういう客演という仕事は基本移動は1人ですし、どこの場所でも食事はいつも孤独のグルメ。
時にその場所のオーケストラの方々に誘って頂き楽しい時間を過ごすこともありましたがほとんどは1人でした。
当時はまだスマホもありませんでしたから、本はよく読みました。
新聞もよく読みました。それも朝日毎日読売という大手の新聞ではなくその土地に根付いた地方新聞が大好きで、毎日買っていました。今でも地方に行くとその土地の新聞を買いますが、それはその当時の習慣の名残です。
こうやって書いていると、どうでも良いことを思い出すものです。
広島でタクシーに乗るとラジオからは「広島対巨人」の実況中継が流れていて、広島が大差で負けていることも知らず
「中日はどうなりましたか?」と運転手さんに聞いたら
「お客さん、降りてもらっていい?」と言われ、いまだに戦国時代は人々の根底で続いていることを知りましたし、発言には今自分はどこにいるのかを考えてから話すようになりました。
失敗からしか学ぶ事はできません。
(次回に続く)
ぜひご感想をお寄せください!
いただいたご感想は「Fruitful」トップページでご紹介させていただくことがあります。
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。
