第8回 不調を防ぐ工夫:睡眠時間について考える
東京大学教授
精神科医師・医学博士
佐々木 司
前回は、思春期がメンタルの不調の起こりやすい時期であること、また精神疾患の多くは思春期から増え始め、10代の中頃から終わりにかけて発症のピークを迎える病気が少なくないことをお話しました。今回からはそのような不調を防ぐための工夫、特に毎日の生活の中で気をつけられる工夫についてお話したいと思います。具体的には睡眠や運動の習慣、気分転換、居場所と仲間作りなどについてお話します。また音楽と楽器演奏の役割についても、私自身の経験を含めてもお話できればと思います。なお字数の関係で今回は、睡眠習慣の中でもその量、つまり「睡眠時間」に焦点をあててお話したいと思います。
まずは十分な睡眠時間が大事
睡眠はメンタルの健康を保つうえで最も大事なことの一つです。特に日本人を含めて東アジアの人は、ヨーロッパやアメリカの人たちと比べて、子どもでも明らかに睡眠時間が短いので、一層の注意が必要です(後ろの図2で詳しく説明します)。
図1を見てください。これは日本の中学生・高校生約1万8千人を対象としたアンケート調査を私と共同研究者がチームで解析した結果です。普段の睡眠時間と、うつや不安が一定以上のレベルに達するリスクとの関係(統計学の言葉で言うとオッズ比)を示しています。上段は中学生、下段は高校生で、いずれも左側は男子、右側は女子です。
男子の場合には中学生・高校生とも普段の睡眠時間が8.5~9.5時間の生徒でうつ・不安のリスクは最も低く、睡眠時間が短い生徒ほどリスクの高いことが分かります。同様に女子(右側)の場合には、普段の睡眠が7.5~8.5時間の生徒で最もリスクは低く、睡眠時間が短いほどリスクが高いことが分かります。
なお男子では睡眠時間が8.5~9.5時間より長い生徒、女子では7.5~8.5時間より長い生徒でもリスクが若干高いようにも見えますが、それらの生徒の数は実際には少なく、恐らくは、既に調子を崩しているか睡眠時間帯が乱れていて、なかなか起床できない生徒がここには含まれているのではと推測しています。
図1. 普段の睡眠時間とうつ・不安のリスクとの関係(日本の中高生約2万人での調査結果:筆者の研究室からの論文(Sleep, 2016)より).
左が男子、右が女子、上段は中学生、下段は高校生。横軸は睡眠時間、縦軸はうつ・不安のリスク比(男子では8.5時間-9.5時間、女子では7.5-8.5時間寝ている生徒と比べた時のリスク比(正確にはオッズ比))。図の中の **、 ***は、統計学的に有意な違いがあることを示している。
睡眠不足は死にたい気持ちを強める
この調査では、「生きていても仕方ない」という気持ち(希死念慮)を抱くリスクと睡眠時間との関係についても調べていますが、「うつ・不安のリスク」とほぼ同様の結果が得られています。
大人の自殺では、長時間労働による睡眠不足・過労と自殺との関係が問題となっていて、労災認定の根拠ともなっていますが、子どもでもそのような影響があることを示す結果といえるでしょう。
睡眠時間の常識は非常識
なお図1の結果はあくまでも全体の平均をみたものですので、各個人では違いもあります。たとえば高校生くらいになると、8-9時間より短い睡眠でも大丈夫な生徒もいます。ただ恐らくは6時間、7時間を切るような短い睡眠を続けていると、メンタルの調子を崩すリスクが高まることは間違いないことかと思います。
また学校の教員も含めて、日本の大人の多くが信じている「6時間も眠れば十分」という考えは、少なくとも10代では正しくないことに気づいてほしいと思います。このことは、次の図2の説明でもお話します。
睡眠不足は大人だけじゃない
日本を含む東アジアの大人の睡眠時間が欧米各国と比べ非常に短く、特に日本はOECD諸国の中で最も短いことは、以前から話題となっており、皆さんもご存知かもしれません。また過労死・過労自殺といった深刻な問題を防ぐために、残業時間の制限などが進められていることはご承知の通りですが、この問題でも睡眠時間の確保は重要な課題です。
一方、このような日本人の睡眠不足が大人になってからのことではなく、すでに10代以前から始まっていることは十分認識されていないかもしれません。
アジア人の睡眠時間は10代から短い
図2はヨーロッパ(Europe)、米国(USA)、アジア(Asia:具体的には日本を含む東アジアとインド)の10代の睡眠時間の年齢による変化を示しています(平均値と考えてください;直線になっているのは統計学的処理(回帰分析)のためです)。
図から分かるように、日本人を含むアジアの10代の睡眠時間は、既に10歳の時点からヨーロッパ人、アメリカ人より短く、その差は年齢が上がるにつれて広がっています。10代で年齢とともに少しずつ睡眠時間が短くなること自体は自然なことではあるのですが(一日の半分を眠って過ごしている新生児から大人に向けて、年齢とともに減少を続けます)、それにしてもアジアの子どもの睡眠時間は世界的に見ても相当短い、ということです。
図2. 10代における睡眠時間の変化:ヨーロッパ、米国、アジア(日本を含む東アジアとインド)の比較(Matricciani ほか、2013)
アジアの子どもは10歳時点からヨーロッパは勿論、米国の子どもより睡眠時間が短く、10代後半ではその差はさらに大きくなっている。なおグレーの横帯は米国の睡眠の専門家(the National Sleep Foundation)のガイドラインで推奨されるこの年代の子供の睡眠時間(8時間半―9時間15分)。同様に、横線(9時間)はハーバード大学、点線(10時間:NHLBI)は米国の心臓・肺・血液研究所(the National Heart, Lung, Blood Institute) のガイドラインでの推奨時間。
10代の推奨睡眠時間は約9時間
図2の上の方に、黒い帯と線があることにも気づかれたでしょうか? これらはこの年代の子どもたちの睡眠時間として推奨される時間を示しています。帯の方は米国の睡眠の専門家たちが推奨する時間で、8時間半から9時間15分、線の方はハーバード大学のグループが推奨する時間で、9時間です。
実はこの図を掲載している論文の目的は、アジア人の子どもの睡眠時間が短いことを示すことではなく、アメリカの子どもたちの睡眠時間が減っていることに危機感を抱いて、広く警告するために書かれたものです。確かに米国の子どもの睡眠時間は、ヨーロッパの子どもより短く、10代半ば以前に推奨される時間よりずっと短くなっています。アジア人のデータは比較のために掲示されているのですが、実はより深刻に短くなっていることが、図らずも示された訳です。
ちなみに専門家に推奨されている9時間前後は、図1で示した、うつ・不安のリスクが低い中高生の睡眠時間、8.5~9.5時間と一致しています。
睡眠は学習・記憶を定着させる
「10代は9時間睡眠を」と言われても「実際、無理」と感ずる人も多いと思います。確かに今の子どもたちは色々と忙しくて、「6時間、7時間の睡眠確保」がやっと、という子も少なくないかもしれません。
また「メンタルの健康」に役立つと言われても、現実に目の前にぶら下がっている「受験」や「試験の成績」への懸念に目がかすんでしまうかもしれません。
そのような場合に是非知ってほしいのが、学習に対する睡眠の効果です。
この効果は暗記などの単純な記憶に限りません。複数のことをつなげて組み立てて行くような複雑な課題を含め、様々な学習に効果があります。学校の試験で言えば「応用問題」も含まれるでしょうし、楽器演奏を含めた運動スキルの獲得にも効果があります。
つまり、睡眠を削って延々と試験勉強を続けるよりさっさと切り上げて寝てしまった方が試験の成績は上がり、演奏会前だからと夜遅くまで練習に執着するより、思い切って寝てしまった方が翌日の演奏はうまくいく、というわけです。
なお勉強や練習をせっかく途中で切り上げても、そのあと寝るまでゲームなどに夢中になってしまうと、勉強や練習に対する睡眠の学習効果は得られません。「学習への効果」がゲームなど、寝る直前にやって夢中になっていたことに行ってしまうからです。
十分な睡眠は学習にも大切
睡眠にはいくつかのタイプがあって、いわゆる「深い睡眠」(専門用語では徐波睡眠)は一晩の眠りの前半に集中して見られます。このことから、世の中には「短時間、深く眠ればそれで充分」と説く人、そう信じている人もいますが、それは大きな間違いです。
一晩の眠りの後半では徐波睡眠は余り見られませんが、レム睡眠など他のタイプの睡眠が多く出現します。学習にはこれらの睡眠も大きく役立ち、特に「覚える」タイプの勉強や、楽器演奏など運動にかかわる学習には、そのような睡眠、つまり夜寝始めてから何時間かたって増える睡眠が影響します。
つまり睡眠時間を削ってはいけない(「深い睡眠」のあとから出てくる睡眠も大切なので)、というわけです。おそらく、メンタルの健康と睡眠時間の関係にも似たような機序があるのだと思います。
おわりに
今回はメンタル不調の予防に関するお話の一回目として、睡眠時間に焦点を絞ってお話しました。
睡眠時間の不足は、うつや不安、生きていたくない気持ちなど、メンタルの不調に影響するだけでなく、勉強の効率低下にも直結することをお分かり頂けたのではと思います。
思春期は受験の時期とも重なり、塾通いを含めた勉強時間の増加が睡眠不足につながりやすい年代です。睡眠時間の確保に十分注意して頂きたいと思います。また、睡眠不足は勉強の効率を低下させますが、これは直接の影響だけでなく、メンタルの不調を介しても影響することに注意してください。昨今は急速な少子化を受けて、より早い年齢から激しい受験競争があおられていますが、客観的な視点を忘れず、冷静に考えて頂きたいと思います。
さらに近年はスマホやゲームへの依存・長時間使用の問題もあります。これらは睡眠不足に一層拍車をかけており、かつ一度始まるとなかなか抜け出しにくい厄介な問題です。スマホ等を与える時には今それが本当に必要なのか、また使わせ方とルールの守らせ方について、良く考えておく必要があるでしょう。オーストラリアが先日、16歳未満でのSNS使用を禁ずる法案を可決しましたが、これについても考えてみると良いかも知れません。
佐々木司(ささき つかさ)
東京大学教授、精神科医師・医学博士。小学校入学後よりスズキ・メソードでヴァイオリンを習う。東京大学医学部医学科卒後、同附属病院精神科で研修。クラーク精神医学研究所(カナダ、トロント市)に留学。東京大学保健センター副センター長、同精神保健支援室長(教授)などを経て、現在、同教育学研究科健康教育学分野教授。思春期の精神保健、精神疾患の疫学研究、学校の精神保健リテラシー向上などに取り組んでいる。日本不安症学会理事長、日本学校保健学会常任理事、日本精神衛生会理事を兼務。
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