第3回「Elegy」
チェリスト
山本裕康
新宿の「稲葉屋旅館」に着くと2階の端っこの日当たりの良い部屋に通されました。
狭い部屋でしたが、炬燵とテレビがあり朝と夜の食事はボリューム満点で大層居心地の良い旅館でした。
受験した桐朋学園大学は2月20日前後から伴奏合わせが2日間あり実技試験、楽典、ピアノ、ソルフェージュ、小論文、そして面接と約10日間近くに及ぶ為、その「稲葉屋旅館」は僕の前線基地でした。
残念ながら今はその旅館はありません。
各種の試験は午前中に終わるため毎日午後からは時間を持て余し、友人もおらず人と話す事もない孤独な受験生の旅を支えたのが、週刊文春が報じて当時かなり話題になった「疑惑の銃弾」を読み、その事件を扱うワイドショーを観ることでした。
その事件を追っていたロス市警の刑事さんの名前を今でも覚えているぐらいですから、若い時の記憶力は素晴らしい。
このころにバッハの無伴奏チェロ組曲を全部覚えていれば、今でも楽に暗譜で弾けたんじゃないかと後悔することしきりです。
実技試験の日にその年に演奏学科のチェロ専攻を受験をする人間は僕1人であると言う事を知りました。
1人しか受験しないのにその人間を落とすような事はしないんじゃないか? と根っからの自分に対して常に甘いと言う体質がこの受験の時ですら堂々と顔を見せ始め(良い年に受験したなぁ)と思うまでになった当時の僕を怒鳴りつけてやりたい。
僕にとっての最難関は前回も書きましたが、ソルフェージュでした。
自分に甘い僕は(今年は何故か簡単な問題が出るのでは?)とか(結構出来ない人も沢山いるんじゃないの?)とか(大雪でも降って今年のソルフェージュの試験は中止です、とならないかな?)と、チェロ専攻が1人しかいない事実をベースにどんどん楽観的になっていった愚かな自分をよく覚えています。
ソルフェージュの試験は2月26日で、妄想通り大雪でした。
もう40年前の話なのになぜ日にちまで覚えているのかと不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、僕の18歳の誕生日だったんです。大雪の妄想は当たりましたが、当たり前ですが試験が中止になるわけもなく靴の中がびしょびしょになりながら試験会場に着き、問題は想像以上に難しく楽天的な僕も流石に気持ちは撃沈。
俗に言う2・26事件とはこの事です。
現在はネットで合格発表を見る時代ですが、当時は直接大学まで見に来るか数日遅れで封書を受け取って結果を知るという二択でした。
果敢にも両親に交通費を出してもらい再び東京へ。
たった1人のチェロの受験生の番号は何度見てもありませんでした。
公衆電話から両親と師匠井上頼豊先生に電話をして、文字通りトボトボと帰りました。
名古屋の家に戻ってから翌日か翌々日に速達で大学から結果発表の封書が届きました。
自分に甘いだけじゃなく諦めも悪い僕は(封書に入っているのには合格と書いてあるかも。だから速達なんだ)と思ったところが僕たる所以。当然不合格で浪人決定。
週刊文春の「疑惑の銃弾」が次々と新たな記事を出し、それをテレビが大々的に報じたのを見て、いろんな人がその関連の本を出版して読み漁るという僕の浪人生活が始まりました。
2023年2月18日(土)、松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール)にてクァルテット・マツモトの演奏会が開催されました!山本先生、終演後の一枚です。
プロフィール
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。