第11回「lavoro」
電車は時間通りに来ない、銀行によってレートが大きく違う、コンサートも定時で始まらないと言う生活に慣れ、影響されやすい僕はすっかりイタリア人気質の人間になって日本に戻ると、少しずつ弾く仕事を頂けるようになりました。
バロック音楽中心の小編成のオーケストラやパーティー等々でカルテットを弾いたり、プロのオーケストラのエキストラに呼んで頂いたり、さらにはスタジオ録音の仕事に呼んで頂いたり、フリーランスのチェロ弾きとして見るもの経験するもの全てが新鮮でワクワクしながら毎日を過ごしていました。
その中でも今回はそのスタジオ録音の仕事はどんなものなのかを紹介したいと思います。
ポップスや歌謡曲と言われる音楽のCD録音、映画やTVドラマなどに流れる音楽などを録音する仕事です。
その仕事はまず 「何月何日、〜スタジオで何時から何時は空いていますか?」 と聞かれて大丈夫であればその日時にそのレコーディングスタジオに行くわけです。
僕がその仕事を始めた頃はメールではなく電話でのやり取りが全てでした。 しかもまだ携帯電話なんてほとんどの人が持っていない時代でしたから、家の電話の留守番電話にその仕事の依頼が入っていればすぐに折り返し電話をしていました。 そんな時代が懐かしい。
そしてそのレコーディングスタジオに行ってチェロの席に座って待っているとドサっと譜面台に楽譜が置かれ、すぐに全員が初見で演奏します。
その演奏はすでに録音されていて、その録音のプレイバックを聴き自分なりに修正箇所を書き込みます。
そのほんの限られた時間に初見で弾けなかった部分や危ない部分の指遣いを書いたりもします。 次にはもう本番のレコーディングとなります。
そこにいるプレイヤーの方々はその道のプロでしたから、その一回のプレイバックの後には「〜のコードネーム何? 音が違ってるかも」とか「〜は写譜ミスだと思うけどファはシャープで良いんだよね」とか「ビオラと音がぶつかるんだけどこの音で大丈夫?」などなど、弾ける弾けないではなく、譜面のチェックをその一回で指摘して修正する現場に僕は最初の頃は凄い人達だなといつも感心、尊敬をしておりました。
そして内心僕は相当ビビって怯えていました。
僕は毎回音や楽譜のチェックどころか(まずい、弾けないじゃん。5分だけでも時間くれないかなぁ)ぐらいしか思っていませんでしたから。
しかし時間が限られているのでそんな時間があるわけもなく、仕事内容によっては譜面台に数十曲の楽譜が置かれているわけですから容赦なく録音は進んでいきました。
そんなこともあり初見に関しては相当鍛えられましたし、一回の演奏だけで楽譜のミスや音のチェックが僕でも少しずつ出来るようになりました。
人間どんな事でも成長出来るものです。
僕がそこそこ人並みに初見でとりあえず弾けるのは、このスタジオ録音での仕事で鍛えられたからだとはっきり言う事が出来ます。
仕事を依頼される時は日にちと時間、そして場所しか言われませんから、何の音楽を録音しているのか知らない事も多くありました。 テレビやラジオから聴こえてくる曲に聴き覚えがある。何で僕はこの曲を知ってるんだろう? と思ってしばらく考えていると以前録音した曲だったと言う事もよくありました。
その中でも今でも特に記憶に残ってるのは東急文化村の地下にあるレコーディングスタジオに行くとシンガーソングライターの槇原敬之さんがいらっしゃった時の事です。 いわゆるマッキーです。
その時の録音は槇原敬之さんが作曲した曲で、演奏者にさまざまな注文を言ってノリノリだったのを覚えています。
そのレコーディングの時にはまだ歌は録音されておらず器楽だけの録音ですから、いずれここに槇原さんが歌を入れるんだろうと思いながら帰宅しました。
どれぐらいの期間があったかは覚えていませんが、ある時再びテレビから記憶ある曲が流れて来ました。
歌っているのがSMAPでした。 SMAPの録音をした記憶はないのにこの曲を知っている。
どうしてこの曲を僕は知ってるんだろう? と不思議に思っていましたが、あるフレーズのところで槇原さんがチェロに注文をした事を思い出しました。
その曲こそ槇原敬之さんが作曲してSMAPが歌った「世界に一つだけの花」でした。
逆にNHKの朝ドラでチェロのソロを録音していた時はドラマでどんな場面で使われているんだろう? という興味から毎朝必ずそのドラマを観たという事もありました。
このスタジオ録音の仕事は僕がもう一度エチュードやバッハを練習し直そうと決意した40歳の時に辞めてしまいましたが、それまでは本当に多くのレコーディングに携わらせて頂きましたし、貴重な経験でした。
今も年に何度か連絡を頂きますが、電話でもメールでもなくLINEでの依頼になっています。
槇原敬之さんとはその後2度全国ツアーもご一緒して今では僕も熱心なファンの1人です。 そして彼の曲で最も好きな曲は「ラブレター」です。
(次回に続く)
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愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。