第5回「giocoso」
チェリスト
山本裕康
2回目の受験の前線基地となった「駒場エミナース」のあった場所には今では高級マンションが建っています。
縁なのか僕が今勤務する東京音楽大学中目黒キャンパスに行くときは必ずその駒場エミナースの跡地に建ったマンションの前を行き帰り共に通ります。
その直前の信号で停まると2回目の受験の時のどうでも良い事をよく思い出します。
「駒場エミナース」の最寄りの駅である駒場東大前の駅前にあった立ち食い蕎麦屋さんでコロッケ蕎麦を注文したおじさんが、コロッケを食べるときに下に落とした事とか、すぐ近くにあった喫茶店に入り会計の時に財布をホテルに忘れた事を思い出してチェロを人質に置いて財布を取りに行った事等々。
バッハの無伴奏チェロ組曲の暗譜が怖いとか、昼に食べたものすら記憶が危ういと言うのにどうでも良い事だけはよく覚えているものです。
どこの音楽大学でもそうだと思いますが、実技の試験には必ず伴奏をしてくださるピアニストを用意してくれます。
2年目の実技試験の前日に伴奏合わせの指定された部屋に入って行くと、「あれ?あなた去年も受験してたよね?ダメだったの?なんで落ちたの?でも元気そうね。今年こそあなた入りなさいよ」と励ましてくれているのかどうなのかとても微妙な一言をピアニストの先生から頂いて伴奏合わせが始まったのを覚えています。
曲はハイドンのCdurでした。
専攻実技、副科ピアノ、楽典、小論文、懸案のソルフェージュ、そして最後に面接があり2回目の受験は終わりました。
ソルフェージュはあれだけ頑張ったのにもかかわらず自信はありませんでしたが、滑り止めにディプロマコースという実技だけのコースも出願していましたので(今度落ちたらディプロマコースでいいや)と思っていました。
どこまで生意気で楽天的で物事を知らなかったんだろうと恥ずかしい限りです。
2回目の合格発表も懲りずに東京まで見に行きました。
結果は合格したのですが、一緒に受験したスズキ・メソード出身の早川くん(現在アンサンブル金沢団員)が不合格となり喜ぶことも出来ず、「大丈夫。この学校は一年浪人すれば入れるよ」とか「車の免許をとるチャンスだよ」と自分の浪人生活の1年間の事を偉そうに語って励ましたつもりでいました。
寂しそうな彼の表情はいまだにはっきりと覚えています。
その彼も翌年には合格。
住んでいたアパートも近くお互い貧乏生活を送っていましたので、よくお互いのアパートを相互訪問して、ホストがお米を炊き、訪問する方がメインディッシュの「桃屋のメンマ」「桃屋のザーサイ」「江戸むらさき」等の瓶詰めを持って行き、大いに食べて空腹を満たしていました。
ある夏は佐賀県出身の友人が「実家から送ってきたけど食べきれない」とダンボール1箱の素麺をもらって早川くんと来る日も来る日も素麺三昧。一生分の素麺をその年の夏に食べました。
麺類は大好きな僕ですが素麺をあまり食べようとしないのは、人生で同じ物を食べる量は決まっているんだろうと勝手に推測しています。
大学に入ると当然の事ながら友達という友達もおらず孤独な4月でしたが、ある時先輩たちのオーケストラの授業を見学しに行き、その大編成のオーケストラの音量と迫力と音楽に圧倒され衝撃を受けました。
曲はレスピーギ作曲の「ローマの松」でした。
弦楽合奏、とりわけバロック音楽は好きでよく聴いていましたが、それ以来しばらくは「ローマの松」に取り憑かれたように聴いていました。いつかこの曲を弾く日は僕に来るんだろうか?とぼんやり思っていましたし、音楽に関することをもっと知りたいと思うようになりました。
友人達が挑戦すると言う「コンクール」というものを受けようかなと思って師匠に相談すると、「今の君がコンクールを受ける意味が見当たらない。次回にしなさい。今はちゃんと自力をつけなさい」と言われ、同級生や先輩が「とにかく受ければ全員合格するから」と言っていた講習会のオーディションを受けたら僕だけ落ちたり、なかなか思い通りにはならない面白い音楽人生はこんな風に始まりました。
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。