第8回「competition」
チェリスト
山本裕康
大学も3年目になると11時30分に学校に行き、学校が閉まる22時に帰宅すると言うルーティンが出来上がりました。ほぼ1日住み着いた猫のように学校で練習していたのを思い出します。
なぜ11時30分か。
学校のすぐ近くにモーニング・セットが11時まで、その後ランチタイムセットが始まる11時30分までの空白の30分にマスターの好意でモーニング・セットとランチ・セットを混ぜた特別なセットを毎日食べさせてくれる「コロラド」と言う喫茶店がありました。それもモーニング・セットの値段で。ありがたかったな。感謝しかありません。
その喫茶店で一番高額だったのが「ダッチコーヒー」と言って水出しのコーヒーで、抽出するのに24時間かかると言うものでした。それを飲むのが夢でした。小さな夢です。でもそんな夢があったからあの頃は頑張れたとも言えます。
それを食べ終わって学校に着くのが11時30分。それから練習部屋ではなく学校の廊下の片隅でチェロを弾き始めると言う生活でした。
廊下は響くんです。常にホールで弾いている自分を意識しなさいと先生には言われていましたから、その環境を実現するには廊下で弾くことが一番手っ取り早かった。
さらに言うとバッハの無伴奏チェロ組曲を教会で弾いている気分になれたのはトイレでした。
とはいえ人がほとんどいなくなる22時ちょっと前に一回バッハを弾くくらいしか出来ませんでしたが。
「今の君がコンクールを受ける意味が見当たらない。次回にしなさい。今はちゃんと自力をつけなさい」と師匠に言われてから2年が経過し、その次回がやってきました。
恐る恐る師匠にコンクールを受けてもいいかを尋ねると「受けるなら恥ずかしくない演奏をしなさい。それ相応の努力を」と一応の許可を頂き挑戦することになり、ほぼ学校に住み着きずっと楽器を弾いていたあの頃が懐かしく眩しい。
コンクールの課題曲は
1次予選
バッハの無伴奏チェロ組曲4番より
バレンティーニのソナタ
2次予選
ベートーヴェンのチェロソナタ第3番より
ポッパーのタランテラ
本選
ドヴォルザークのチェロ協奏曲とシューマンのチェロ協奏曲からどちらかを選択
と言うものでした。
どの曲も弾いた事もなく、本選はページ数の少ないシューマンを選択しました。
シューマンの深淵な世界も知らず、ページ数が少ないと言う理由だけで選ぶと言うこの無邪気さが今の僕にないのは大変寂しい。
これらの曲を4月から9月の終わりまで11時30分から22時まで毎日学校で練習していたわけです。
もちろん授業に出ている暇はなく、いつものように廊下で練習していると必修の音楽理論の先生が通りかかり「お前履修届は出ているけど、いつになったら授業に出るんだ?」と言われたことがあります。
「コンクールが終わったら出ます」と言うと先生は「わかった。俺が授業している間はここで練習していろ。一度でも練習をサボったら単位はやらない」と言う契約が成立。
良い時代でしたし素敵な先生でした。
その作曲家の先生とは卒業したあともずっと親交があり、2年ほど前に先生のお宅にお邪魔してチェロとピアノのための俳句のような曲を作ってくださいとお願いしてかなりの曲数を送って頂いていましたが、残念ながら昨年お亡くなりになり未完となりました。
コンクールの1次予選と2次予選の日は桐朋学園の学園祭とばっちり重なっていて、学園祭で友人が開いた生演奏をずっとやっている喫茶店で何度も予選の曲を弾いてからコンクール会場に向かいました。
学園祭からコンクール会場に向かうとはいささか不謹慎ではありますが、何度も人前で演奏できたことはこの上なく為になったと思っています。
そのおかげもあり本選会に進む事ができましたし、最高に良い結果を頂きました。
審査委員をされていた師匠にコンクール後に挨拶に行くとこんな事を言われました。
「おめでとう。君が点数上では1位だった。でも1位無しの2位で良いのではないかと君の1位に反対した審査員もいることを忘れないでほしい。まだまだ未熟だし、これから長い旅が始まるんだよ。ちなみに反対したのは私だ」と。
順位がどうだったかと言う事は実は本当に小さなことで、例え自分の生徒でもフェアにジャッジする師匠の生き方をそのコンクールで教えられました。
それは35年経過した今でも忘れることはありません。
東京音楽大学の専任教員になった時、師匠のように生徒に対してはもちろん、自分に対してもフェアでありチェロ界の為になる人間になることを師匠のお墓の前で誓いました。
余談ですが、「コロラド」のマスターにコンクールの結果を報告すると「お祝いね」と言って夢のダッチコーヒーをご馳走してくれました。
(次回に続く)
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。