第10回「Italia」
大学ではチェロの絶対数が少なかったという事もあり先輩から同級生、そして後輩に至るまで多くの友人たちから室内楽を誘われました。
「遊びで〜の曲やらない?」 と当時は必ず「遊びで」と言う言葉が使われていました。
それは演奏会があるわけでもなくレッスンを受けるわけでもなく、とにかく初見大会をしてその曲をやってみない? と言うのが「遊びで」の意味です。
自慢じゃないけど不器用でしたし譜読みの遅い僕でしたから、初見と言っても大体の音しか出せませんでした。それでも人間はそんな経験を毎日積んでいけばそこそこ初見でも弾けるようになってくるものです。
弾けると言っても曲を理解して弾くレベルには遠く及びませんでしたが。
「遊びで」と誘ってもらってもほとんどが知らない曲でしたが、そんな毎日を過ごしているとそれでも好きな曲が増えていき、弾いた事のない曲でも今後弾いてみたいと言う曲が湧いてきました。
ベートーヴェンやモーツァルトのカルテットからメンデルスゾーンの8重奏やブラームスの6重奏等々、今でもたまらなく好きな曲を知る機会を得た事は大学時代の宝物だと思っています。
室内楽の講習会である沖縄ムーンビーチキャンプやイタリアのキジアーナ音楽院の室内楽のクラスに行くことにしたのもその「遊び」が徐々に本気になっていった結果だと思います。
そのイタリアの事を少し書きたいと思います。
イタリアと言う国については多少話には聞いたことがありましたが、実際は驚愕の連続でした。
多くのことがのんびりしていて電車が時刻通り出発しないのは当たり前、銀行によって日本円を換金するレートもまちまちでした。 オーケストラの練習が午前10時からと書いてあれば日本人の僕は9時に行く。
でもそこには誰もいませんし10時になっても誰も来ません。日時を間違えたのかと思って確認しに行くとやはり10時からで場所も間違ってません。
みんなどこに行ったんだろう? と探してみると学校の門のところでジェラートを食べながら全員楽しそうに話している。しかもその中心にいるのが指揮者だったりする。
最初こそ戸惑いましたがすぐに慣れ、今まで3分経てばすぐに来る山手線に必死に走って乗っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきました。
僕の中で眠っていた楽天的な部分に光が当たったと言う感触すらありました。
室内楽はリッカルド・ブレンゴラー先生というイタリアバイオリン界の巨匠に習っていました。
年齢は70歳を超えていましたが、スマートでとにかくオシャレでした。
ブレンゴラー先生の誕生日に日本人の生徒でお金を集めてレストランにご招待したことがありました。
時間になると上下白のスーツの中に真っ赤なシャツを着て大きな花束を持った先生が颯爽とレストランに現れ 「招待してくれてありがとう」 と言いながらその大きな花束を机の真ん中にドンと置き、再びその花束を持ち上げたと思ったら花束に包まれるように中に入っていた巨大な赤ワインのボトルが姿を現し「今日はこのワインをみんなで飲もう」とおっしゃりました。
そのカッコよさに惚れ惚れとしましたし、こう言う大人になりたいと心の底から思いました。
まだまだ間に合う。あんな70歳になろうと今でも密かに試行錯誤しております。 僕の70歳を楽しみにしていて頂きたい。
同年代のイタリア人の男の友人達は、毎朝女性に「おはよう! 君の髪はホントに美しい。今日は一段と綺麗だよ」と恥ずかしげもなく言ってました。
今の時代僕が同じ台詞を言ったら、瞬間通報されるか訴えられるかだと思うのでとても言えませんが、当時ですら僕には言えない歯の浮くような台詞でした。
国が違うと様々な事が違うのは当然ですが、逆に日本の良いところと悪いところを外から見て知る事こそ海外に出る理由の一つだと思ってます。
ある時シェーンベルクの弦楽6重奏のための「浄夜」と言う曲のレッスンを受けていた時にブレンゴラー先生が急に涙を流し始めました。
何度もハンカチで涙を拭い、厳しい先生がその時はほとんど何もおっしゃらずにレッスンは終了しました。
僕には何が起こったか全く分かりませんでしたし、ひょっとしたら僕たちの演奏に感動でもしたのかぐらい思っていました。
後になって友人から「ブレンゴラー先生は何度もこの曲を弾いて来たけどもう自分で演奏する機会は二度とないと思ったら涙が止まらなかったそうだ」と聞き、それはいまだに忘れられない出来事です。
当時の先生の年齢に僕も近付いてきて先生の抱いた想いが少しだけわかるような気がします。
そしていつか僕も生徒さんの演奏を聴いて涙するんだろうなと思っています。
遊びから始まった僕の室内楽の旅も後半戦である事は間違いありません。
そして最後はまた遊びに戻りたいと願ってます。
(次回に続く)
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。