第7回 「respect」
チェリスト
山本裕康
大学生活にもすっかり慣れ、2年生にもなると木曜日にあった体育以外の授業に出席する事はなくなりました。
今の時代はそんな事は許されないでしょう。
僕の勤務する大学も例に漏れず、最近の音大生は授業の出欠が相当厳しい事もあり見ていても気の毒で仕方ありません。 しかし頭が柔軟でスポンジのように吸収できる学生時代こそ特に語学の勉強はして欲しいと願っています。
当時の僕は室内楽やオーケストラを含むチェロと体育のみに熱中するという漫画の世界でしかあり得ないような生活を謳歌していました。とは言え年度末には授業には一度も出席していないのにもかかわらず、類稀で奇抜な想像力でレポートを書く事に血眼になっていました。
そんな怠惰な態度でもかなりの単位を取得出来てしまった故、不幸にも3年生になっても同じ生活を自信を持って続ける事になったんだろうな、と遠い昔の事を分析しております。しかし単位を与えた方にも非はあるな。
そんな大学2年生の時に大きな出来事がありました。
現在では日本を代表するホール、「サントリーホール」の開館とそのオープニングにヨーヨー・マが来日した事です。
ソロや室内楽など1週間毎晩違うプログラムでヨーヨー・マの演奏会がありました。
全て聴きに行きましたし、その1週間の中には我々桐朋学園の学生オーケストラとの共演もありました。
曲はハイドンのチェロ協奏曲第2番D-dur、バイオリンの大巨匠であるアイザック・スターンとモーツァルトのシンフォニック・コンチェルタンテ(ヨーヨー・マはビオラのパートを暗譜して弾いていました)でした。
それは感動というより驚愕でした。
師匠の故・井上頼豊先生にはヨーヨー・マを聴いてチェロを弾くのが嫌になった事を伝えたところ 「君の気持ちはよくわかる。私もフォイアマンを初めて聴いた時はチェロを辞めて北海道で鶏を飼おうと思ったものだ」 とおっしゃったのが懐かしい。
演奏会当日ゲネプロが終わった後にヨーヨー・マがどんな練習をするのかが知りたくて、楽屋の扉に耳をずっとくっつけて聴いていました。いわゆる機械を使わない盗聴です。
彼はひたすらハイポジションの音階と分散和音を2時間に渡って繰り返し弾いていました。
故・井上頼豊先生が日頃から仰っていた 「才能がある人と言うのは、継続ができる人間の事を言うんだ」 と言う見本を目の当たりにした記念日でした。
僕はヨーヨー・マの全てに魅了され、2年生の後期の試験では同じハイドンのD-durの協奏曲を選び、しかもカデンツァはヨーヨー・マのCDから耳コピをして書取ったものを弾きました。
彼に喧嘩を売ったわけでもなく、ライバル心をメラメラと燃やしたわけでもなく、ひたすらヨーヨー・マという山に登りたい一心で。
そんな山に登れるはずもなく、何合目まで登ったという事すら憚られる様な出来ではありましたが、夕日に輝くその山を見上げながら、いつかはあんな演奏が出来たらと思ったものです。
後にヨーヨー・マのレッスンを受ける機会を得て、喜び勇んで彼の演奏した音源をひたすら聴き、真似をして挑んだ僕はなんとも浅はかで今でも恥ずかしい。曲はドビュッシーのソナタでしたが、彼は大きな2つの事を言ってくれました。
「ドビュッシーは必要な事は全部楽譜に書いてあるのでとにかくちゃんと楽譜を読みなさい」 と 「顔を上げて演奏しなさい」
単にヨーヨー・マの演奏を真似ただけの演奏ですから楽譜をちゃんと読めと言われるのは当然です。そして次の「顔を上げて」の理由が忘れられないものでした。
「下を向いて弾いている君はチェロから出た直接の音しか聴いていない。僕は顔を上げてホールに響く自分の音を聴いているんだ」
その何年か後に僕がオーケストラで働くようになってからヨーヨー・マの弾くドヴォルザークのチェロ協奏曲とブラームスのドッペルコンチェルトを伴奏しました。
オーケストラとのリハーサルの時、休憩になると僕のところまで来て 「元気か? また会えたね」と言い 「この楽器弾いてみる? 良い楽器だよ」 と僕にポンと楽器を渡し楽屋に行ってしまいました。
休憩中ずっとその楽器を弾かせてもらいましたがここだけの話全く楽器が鳴らず、本当にこの楽器は良い楽器なのか疑問をもつほどでした。結局は僕にそのStradivariusを鳴らす技術がなかったんだと言うことに尽きます。
素晴らしい楽器を奏でるにはそれ相応の技術が必要なんだと教えてくれたのもヨーヨー・マでした。
今でも僕の尊敬して止まないヒーローですし、彼のInstagramのフォロワーでもあります。
(次回に続く)
愛知県出身。スズキ・メソードでチェロを始め、中島顕氏に師事。
桐朋学園大学で井上頼豊、秋津智承、山崎伸子の各氏に師事。在学中1987年第56回日本音楽コンクール第1位、第1回淡路島国際室内楽コンクール第2位入賞、第1回日本室内楽コンクール第1位など数々の受賞歴を持つ。同大学を首席で卒業後、桐朋学園研究科ではピュイグ・ロジェ、キジアーナ音楽院でリッカルド・ブレンゴラーの下で室内楽の研鑽を積む。1990年東京都交響楽団首席奏者に就任。1994年退職後広島交響楽団の客演ソロ・チェロ奏者を経て1997年より2019年まで神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席奏者を勤める。同楽団とはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、グルダ、コルンゴルト、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテなど多数の協奏曲をソリストとして共演し、いずれも好評を博した。
サイトウ・キネン・オーケストラ、宮崎国際音楽祭に三島せせらぎ音楽祭に毎年参加。
トリトン第一生命ホールの「晴れた海のオーケストラ」やチェンバーソロイツ佐世保のメンバーでもある。また室内楽の分野でも欠く事の出来ないチェリストとして著名な演奏家との共演も多い。
チェロカルテットCello Repubblicaの主宰や宮川彬良氏と教育プログラムの2人のユニット「音楽部楽譜係」、生まれ故郷である名古屋で「大人の室内楽研究所」を立ち上げ、地域の文化向上をライフワークとするなど、活動は多岐に渡る。2008年のバッハの無伴奏チェロ組曲全曲に続き、2012年に発表したアルバム『情景』はレコード芸術誌上で準推薦盤の評価を得た。
現在、東京音楽大学教授、京都市交響楽団特別首席奏者、スズキ・メソード特別講師、東京藝術大学非常勤講師。日本チェロ協会理事、みやざきチェロ協会名誉会員。